二人の法師

 旅の始まりは、砕け散った四魂(しこん)の欠片(かけら)を集めることから始
まった。
  不思議な力を持つそれは、悪しき色にも、また清らかな色にも染まる。
 それ故に、その力は当然、悪しき妖怪の欲するモノとなった。
 犬夜叉も以前は、その力を借りて完全な妖怪になろうとしたが、今となって
は無理に人間になる必要も無くなり、その欲望はいつしか消え失せている。
 それが正しい道であったかどうかは己に尋ねるまでもなく、半妖ながらも
立派に成長を遂げた今の姿に答えはある。
  長い旅の中で、犬夜叉は多くのことを学び、そして大切なモノを手に入れ
た。
  その貴重な経験と自分を取り巻く環境とが、彼の心を癒し変えていったの
である。

 そして、その心の変化は、犬夜叉に限ったことではなかった。

 弥勒にとっては、父の敵であり、何より自分の生命を脅(おびや)かす「風
穴」を消し去るためにも、何としても宿敵奈落を討たねばならなかった。
  迫り来る死の恐怖に耐えることは、彼自身の性格まで歪(ゆが)め、その生
き方すらも変えた。
  いつ失うか知れない命、閉ざされた未来、それらを考えるたびに息が詰ま
る。
  かつての弥勒は、いつも考えていた。
 このような命なら、せめて毎日、自由に楽しく過ごしたらいいと。

  そんな中、彼は生涯の友と、人生の伴侶(はんりょ)に出会い、自らの手で
未来を変える強い決心と覚悟とを手にしたのだった…。



 この日、犬夜叉一行は、妖怪退治を済ました村で傷口に良く効くという温
泉を教えられ、決戦までの余裕が無いことを承知の上で、わざわざ足を運
んで尋ねてみることにした。
 それというのも、奈落との距離が近付くに連れて戦う相手もどんどん手強
くなり、風穴を使う弥勒への負担も膨(ふく)れあがる一方だからだ。
 風穴がなければ、法力しか持たぬただの法師。 それが故に、戦いが苦し
ければ苦しいほど、否が応でも、それを使わざるを得なくなる。
 まともに戦おうとすればするほど、その傷は、益々広がっていった。
 しかし、それは、寿命の短さをも意味する。

「ねえ、弥勒さま、疲れたでしょう、少し休みましょうか」
 木陰もない陽の当たる野道を小一時間ほど歩くと、かごめが振り返って優
しく声をかけた。
 それほど気温が高いわけではなかったが、痛みや苦しみに堪える為か、
手や額に汗が浮かんでいる。
 風穴自身が呪いであるためか、普段は健康である体さえも蝕(むしば)んで
いるようにも見えた。

「いいえ、お気になさらず、これほどの日差しに参る私では…」
 弥勒はそう言いつつも、どこか足取りが危なかった。
  時は未の刻(午後二時くらい)、陽がまだ高い上に、肌に感じる温度も高
い。
 青白い顔が疲労を告げ、もはや限界を訴え兼ねない様子だ。
  けれど、彼には、弱音を吐く気持ちなど無いらしい。
「あともう少しではありませんか、急ぎましょう」
「いやダメだよ、法師さま、無理をしないで休んでいこう、倒れてからじゃ遅
いっ」
 そう言ってやや大きな声を出したのは、珊瑚だった。

  弥勒は思わず拳(こぶし)を作り、緊張気味に相手を見つめた。
「珊瑚…」
「みんな…みんな心配してるんだからね…」
  珊瑚は、その長い髪を揺らしながら、切なそうに声を絞(しぼ)った。
 彼女は、彼が弱っていくことを誰よりも心配している。
  弥勒が死の恐怖に耐えていると言うなら、珊瑚は彼を失う恐怖と戦ってい
る。
「奈落だって直ぐには現れやしないよ、焦らずに行こう」
「…そうだな、焦ってしまっては相手の思うつぼ」
「うん…」
  珊瑚は、思いが通じて、少し恥ずかしそうにしながら、そっと背中を向け
た。
 
「よーし、だったら、弥勒、これでもかぶって待ってろ、日差しがしのげるはず
だ。俺はかごめと一緒に川まで行って、冷たい水でも汲んでくらあ」
 そう言って犬夜叉は、突然、自分の衣を脱いでかごめの手に渡した。
 そして、かごめもまた、それを珊瑚の手に託してから、静かに微笑んだ。
「じゃあ、そう言うことで、珊瑚ちゃん、弥勒さまのことをお願いね」
  その優しい表情の向こうに、二人を気遣う真心が見える。
「ありがとう」
 珊瑚は二人の気持ちに応えるようにして、気持ちよく犬夜叉の衣を受け取
った。
 すると、側で聞いていた弥勒は肩の力を抜き、すかさず汗を振り払う仕草
をした。
「法師さま?」
「フッ、何でもありませんよ、汗が少し眼に入っただけです」



 かごめは、持っていた空の水筒に、冷たい川の水をめ目一杯に注ぎ込む
と、流れの中にそっと手の平を浮かせ、自分自身も心地よい自然の癒しに
触れた。
 すると、それまで少し汗ばんでいた額も、不思議なほどに乾いていく。
「気持ちいい〜、犬夜叉もそう思うでしょ」
 思わずそう声をもらした途端、つられて顔の緊張までもがゆるんだ。
 また同時に、体の疲れもみるみる和らぎ、身も心も楽になっていくのが解
る。
「あ…」
  かごめは、そこでようやく、自分自身も酷く疲れていたことに気がついた。
「まったく、人のことばかり世話やいてばかりいねぇで、ちっとは自分のこと
も考えろよ」
  犬夜叉は、照れくさそうにそう言った。
「連れてきて…くれたんだ」
「ま…まあな」

  思いもよらず和んだ雰囲気に、二人はしばらく声をかけるのも忘れて、川
面のきらめきに眼を奪われていた。
 しかし。

「あれ?」
 ふと気がつくと、犬夜叉が突然、川の中へと飛び込んでいる。
 そして、その激しい水しぶきが、側にいたかごめを襲った。
「きゃっ、冷たいっ」
 かごめは、とっさに避ける間もなく、頭から川の水を浴びていた。
 髪と服からは、ポタポタと冷たいしずくがしたたり落ちている。
  おかげで、つい先ほどまでの気持ち良さがすっかり消えてしまったばかり
か、ふつふつと怒りが湧いてくる。

「ひどーい、犬夜叉ってば」
  うっかり川に落としそうになった水筒をしっかりと握りしめながら、かごめは
すかさず前を振り向いた。
 ところが、その光景を一目見た途端、怒りは一瞬で失せてしまった。

「い…犬夜叉っ?」
「すまねえ、かごめ、濡れちまったか」
「うん、でも平気、それよりその人は…」
 川の中から静かに歩いてくる犬夜叉は、何故かその背に弥勒を担いでい
る。
 彼は、川の水を大量に飲み、意識を失っていた。
 しかも、その青ざめた顔には、温かな血の色は全く見えなかった。
「み、弥勒さま、どうしてっ」
 かごめは、何が起こったのか理解できぬまま、ただ夢中で叫んでいた。


   
「法師さま…」
 珊瑚は、今にも消え入りそうな細い声で、その名前を呼んだ。
 すると。
「なんです」
 そう言って弥勒は、少しずつ力を込め、相手の手をしっかりと握りしめた。
 その途端、珊瑚の肩も少し震えた。
 自分の言おうとしたことが、既に相手には解ってしまったからである。
 珊瑚は、いつになく優しい素振りを見せる弥勒に、何かしら良くない不安
を覚えた。
 これがいやらしく体に触れる手ならば、即座に心も晴れる。
 元気なんだと、無事なんだと、安心して胸を撫で下ろすことが出来る。
  でも今は…。

「私は、お前が泣かなくても良いように、最後まで負けずに戦うつもりです。
だからお前も、最後まで私を信じなさい」
 弥勒は呼吸を乱し、肩で息をしながらも、その笑顔は絶やさなかった。
「このことはずいぶんと昔から覚悟していたこと、今さら嘆くことでもない」
「あ…ああっ」
 珊瑚はたまらず、あいている方の手で思わず口元を覆った。
「かつての私ならば、この恐怖に耐えることは忍びなかった」

 けれど今は、犬夜叉やかごめさまと出会い、そしてお前を愛したことで、こ
んなにも頼もしく強く生きて行けるのです。
 
「……」
 珊瑚は、声もなく何度も何度もうなずいて見せた。
「だから私は、こうなったことを後悔してはいない、それよりも、いつまでお前
と共に戦い続けられるか、その方がよほど…辛く悲しい」
「ほ…し…さま」
  弥勒は、最後の最後まで、風穴の呪いと戦う覚悟でいる。
 そして、残された今を懸命に生きている。

「もっとも、こんな姿をさらして、心配をするなと言う方が、無理と言うものな
んでしょうが…」
 言いながら弥勒は、もう片方の手をさりげなく珊瑚の胸元に忍ばせた。
 その瞬間。
「前言撤回!」
 刹那(せつな)、珊瑚の手の平は、間一髪入れずに宙をあおいだ。

「なあんだ、まだまだ元気じゃないの、あーあー心配して損した」
 珊瑚は、ほとほと呆れたように言った。
 しかし、それは、精一杯の強がりでしかない。
 その証拠に、バッと背中を向けたその眼には、やりきれない気持ちをかも
し出している、正真正銘の大粒の涙が光っていたからである。
  弥勒が、泣きそうな自分を励まそうと、わざとふざけて見せたことは解って
いた。
  そう言う相手の気持ちに応えるためにも、いつも通りでいようと、そう決心
を固めた瞬間でもあった。
                                          
  一方、その頃のかごめは。

「あらこの人、よく見たら、弥勒さまじゃないわ」
 かごめは、岸辺に寝かせた相手をマジマジと見つめながら、ホッと胸をな
で下ろした。
 犬夜叉が運んできた時は、確かに弥勒と信じて疑わなかった。
 けれど、あるはずのモノがないのだ。
「風穴もなければ、耳礑(じとう)もないのね」
 男はまだ意識が戻らない。
 飲み込んだ水はほとんど吐き出させたが、今度は疲れで眠ってしまったよ
うだ。
「つまり、そっくりなだけで、赤の他人ってことか」
 犬夜叉は、その男が人違いだと解ると、直ぐに背中を向けて歩き出した。
 道では、本物の弥勒が待っている。
 既に命の助かった人間に、構っている時間などはない。

「ちょっと待ってよ、こんなに似ているのなら、何か縁のある人かも知れな
い、念のため弥勒さまの元に連れていってあげましょうよ」

  *

  弥勒は、自分の顔がもう一つあることを知ると、すかさず父親の姿を頭に
浮かべた。
  もしや…と言う不安は真っ先に浮かんだが、その疑いは直ぐに晴れた。
  この男には、風穴がない。
 それでも弥勒は、他人とも思えないその男を、助けてやりたいとそう思っ
た。
  彼は人払いをして、二人きりで話をした。

「何がありました?川に落ちたのでは無いのでしょう」
「何故…そのことが?」
  男は心を見透かされたことに少し怯(おび)えながら、静かに体を起こし
た。
「せっかく犬夜叉が助けたというのに、礼を言うどころか、嬉しそうな顔一つ
しない、これではまるで助けられたことが不服のようではありませんか」
「…はい、その通り…私は川に、川に身を投げました」
 それから男は、顔が見られないように、両手ですっぽりと覆い隠した。
「寺が妖怪に襲われ、生き残ったのはこの私一人きり。再建する力もなく、
生きていく希望も、生きていく術も総て無くなりました、だからっ」

  弥勒は、眼の前にいる男の方が、よほど仏に尽くしてきたのだろうと感じ
た。
 それ故に、何も報われていないこの男が、とても可愛そうに思えた。
  それにもし、自分が犬夜叉たちと出会わなければ、この男と同じ道をたど
ろうとしていたかも知れない。
  絶望と挫折(ざせつ)との繰り返しで、先の見えない闇の中を歩き回ること
がどんなに苦しいか。
  差し伸べられる手の温かさが、どれほどありがたいものなのか。

「寺など無くとも良いではありませんか。私など、好きなことをして、好きなモ
ノを食べて、好きなだけ眠って、時々仏に仕えておるだけです」
「え、それで良いのですか?」
  男は思わず両手を下ろした。
「命を捨てるよりはマシではありませんか」
「しかし…」
  仏に仕える者がそんな態度では、と言わんばかりの重苦しい表情に、弥
勒は首を横に振って否定した。
「生きてさえすれば、いつかきっと希望は生まれる、生きていく術はこれから
身につければいい」「もしや…あなたも」
「まぁ良く似たものです。この私も、ここにいる者たちに救われ、こうやって力
を授かって生きている。独りではないと言うことがいかに幸せかと言うことを
教えられた」
「では私はダメですね、私は独りだ」
  男はそう言って、再び顔を覆った。
「しかし、今はダメでも、この先、何か特別な出会いが待っているのかも知れ
ませんよ」
「弥勒さま…」
「出会いとは、見つけるモノではなく、見つかるモノなのです。無理をしなくと
も、いつかはきっと現れるでしょう」

  偶然が必然的に。
  たまたま出会ったと思っていた人間が、実は会うべくして出会った仲間で
あると言うこと。
  今の自分があるのは、友という支えがあるからこそ。
 喜びも悲しみも、そして苦しみも、みなで分け合って生きている。

「そうですね、ではそれまで私一人でも、静かに仏に仕えて待つことにしま
す」



「本当にそっくりだったわよね」
  かごめは、まだ興奮が残っているのか、少しはしゃいだ声を出した。
「ええ、あれは本当に私ですから」
「ええっ」
  弥勒の返事に、かごめだけでなく犬夜叉までも
が眼を丸くした。
「しかし、正確には、お二人に会う前までの私自身…と言うところですが」

  そうやって、やや恥ずかしそうに微笑む弥勒には、いつものおどけた表情
など無く、とても穏やかであった。
  感謝していると言わんばかりのその眼には、焦りではなく余裕さえ見える。
 先ほどまでの苦しさなど、まるで嘘のようだった。

「弥勒さまったら、相変わらず驚かせるのが好きなんだから、ね、犬夜叉?」
「何言ってるんだ、そんならおれだって同じだぞ、
お前に会わなきゃ今頃はどうなっていたか…」
「犬夜叉…」
  その途端、かごめの眼から、幾筋の涙がこぼれた。
  感動で心が震えていると言うのは、こういうことなのかも知れない。
  涙が後から後から溢れてくる。
「出会えて…みんなに出会えて本当に…良かった」
「ああ、本当にな」

「さてと、今は少しでも早く、のんびりとお湯に浸かりたい気分ですなぁ」
「あれ、法師さま、何だか少し元気になったみたいね」
  珊瑚は、さも嬉しそうに眼を細めた。
「そうですか?それでは、お前の気持ちが通じた、と、言うことでしょう」
  言いながら弥勒は、スッと錫杖(しやくじよう)を抱え、一足先に雲母の背に
腰を下ろした。
「では、我々も行きましょうか、珊瑚」
「あ…うん」

 空には真っ赤な夕焼けが広がっている。
  これならば、多少赤くなっても、きっと解らない。
  二人の少女は、頬を染めて、束の間の幸せに浸っていた。


すたーと
ばっく