決戦前夜〜ホリン・アイラ〜


 あれは、いつのことだったろう。
 幼い少年をかばって、敵に背中を向けた。
 背中は燃えるように熱く、また衝撃が喉の奥を一瞬にして嗄らし、堪えよう
のない痛みが容赦なく私を襲った。

  アイラは、衣服を脱ぐたびに、残った醜い傷痕に眼を細める。

「どうした」
 その時、後ろから、静かに男の手が伸びてくる。
 やはり、同じく傷だらけの戦士だ。
「ホリン…」
 アイラは、彼に背中を向けたまま、近付いたその腕を抱き寄せ、愛しそう
に胸に抱きしめる。
 彼女は、先日、生まれて一年も満たない双子の我が子を、最後の決戦に
備えて、手放した。
  ぽっかりと空いた空間には、彼の腕だけでは物足りない。
  しがみつく小さな手も、やわらかな頬のにおいも、何もない。
 
「あの子たち、元気にしているかしら」
 アイラは、腕を握りしめたまま、ふと窓に視線をずらし、遠い空を見つめ
る。
 空は、雨が近いのか、灰色の雲がさも重たそうに浮かんでいる。
  この様子だと、嵐になるかも知れない。
  ずっと眺めていると、不安だけが増してくるようだ。
  知らず知らずのうちに、良くないことを考えてしまう。
 彼女は、そっと眼を閉じて、ホリンの胸にもたれた。
 これで少しは、気が紛れるかも知れない。
 そう、思った。

 そして、いつまでも、もやの掛かった気持ちを持て余していると、突然背中
の傷痕を、服の上から、暖かな指が丁寧にたどるのが解った。
「あっ」
 アイラは、思わず声をもらした。
 醜い傷痕を想像するだけで、とてもやりきれない気持ちになる。
 夫婦となった今でも、見られたくないモノはあるのだ。
  更に、激しい雨音が響いて、追い打ちをかけてくる。
 堪らない。

「やめて、見ないで」
 アイラは、剣士でもなく、母でもない、ただの女に戻って慌てて飛び退く。
  同時に、雷の音が一際低く唸って、近くに落ちた。
  つられて肩までが震える。
「何故だ。この傷は、お前の誇りではないのか」
 男は落ち着き払った声で、ゆっくりと言った。  
「!」

 ホリンは普段、口数の少ない無口な男だった。
 だからこそ、彼の発言は、空にある雨雲よりも重たくのしかかる。
「その傷は、女であることを捨ててまで、剣士として生きていた時の証ではな
いのか?」
 そう言って彼は、スッと前に歩み寄り、妻の肩を強く掴む。
「ホ…リン」
「俺はお前に、王子と子供を連れて、共に国に戻れと言った。でもお前は、
俺と共に最期まで戦うと決めたのではなかったのか!」

  アイラが、ハッと我に返ると、そこには厳しい瞳があった。
 それは慰めるどころか、逆に責めるように激しく光る。
 すると、たちまち緊迫した空気が肌へと伝わり、全身に緊張が走ると、不
思議と呼吸が整う。
 まさに、戦場に降り立った剣士は、一瞬の隙や迷いも無いかの如く。

「フッ…そうね」
 アイラは、愛する人に叱られ、恥ずかしく思ったことさえ、自分自身で恥じ
た。
「愚かだわ」
 決戦前夜を迎え、気持ちが動揺していたのかも知れない。
 その傷痕が、生死を彷徨わせたそのケガが、これから忍び来る恐怖を呼
び起こしたのかも知れなかった。
  怖くないと言えば嘘になる。
 だが、怖いと言っても、それは嘘になるかも知れない。
 何よりそういう棘(いばら)の道を、これまで歩いてきたのだから。
 
「すまん、もっとましな励まし方があっただろうが」
 ホリンは、少し表情を緩めて話す。
  少しやり場のない眼が、不器用な男の顔、そのままだ。
「いいのよ、もう…」
 アイラは、優しく微笑む。
 何もかも吹っ切った笑顔は、決戦前夜に相応しい。

「私が望んだことだもの、最後の最期まで、あなたと一緒に行くと」

                                                            終わり

すたーと
ばっく