パリ〜午後3時〜
トラバント&キュアン刑事編番外

 パリを右と左とに分けるように流れるセーヌ川。
 そのセーヌに浮かぶほんの小さな島に、世界でも名の高い大聖堂と、か
の大革命を思い起こさせる旧牢獄などが存在する。
 そして、観光とはかけ離れているが、パリの市民・観光者を守る重要な役
割を担う公的機関もここに存在する。
 
 フランスに存在する警視庁の中でもパリ警視庁は、パリ市、またはその近
郊の犯罪が増加傾向にあるため、治安を守るのが極めて難しい。
 異国の人間が行き交う中、目に見えぬ犯罪だけでも数え切れない。
 今日も多くの市民や観光客が、警視庁の入り口に列をなしている。
 その多くは軽犯罪で、主にスリや置き引きなどの窃盗である。
 そんな中、キュアンは歩きながら、隣でふと立ち止まる相棒の顔を眺め
た。
  刻一刻と訪れる本当の冬の厳しさが、時折、頬を撫でて行く中での出来事
だ。
 午後二時半を回り、温かい紅茶の一杯が恋しくなる頃でもある。

「何を見ている、何か事件でも?」
 キュアンはさりげなくコートの襟をなおしながら、周囲に声が届かぬようそ
っと声をかけた。
「フッ、たいしたことじゃない、治安の悪さを知っていながら、みすみすパスポ
ートを盗まれたバカな観光客を見ているだけだ」
「な、なんて不謹慎なっ」
 予期せぬ片割れの返事に、彼は同じ警察官として、呆れるよりも怒りの方
を強く覚えた。
 思わず声が大きくなってしまったことが、何よりの証拠である。
「トラバント、我々刑事は、既に発生した事件を追うだけが仕事じゃない、こ
れから起こりうる犯罪をも食い止める必要だって当然ある。こうやって列に
並ぶ者たちから、警察の怠慢とののしられることはあっても、その逆は絶対
にあり得ないんだ…いや、あってはならないんだ」
「相変わらず真面目くさった説教か、本当に貴様は頭が固いな」
 それからトラバントは、あたかも気分を害されたかのように、声をうながす
こともなく一人勝手に歩き始めた。
 冷たい風が気にならないのか、彼の長いトレンチコートは前が開いたまま
である。
(何だ、お前のだらしなさだって相変わらずじゃないか)
  キュアンはそう言いたくなるのをおさえ、これ以上気まずくならないように
と、黙ったまま後ろをついて行った。

 その後、二人は、地下鉄の入り口近くにあるカフェに入ると、当然のように
温かい飲み物を注文した。
 そして、しばらくしてトラバントは、いきなり質問を投げかけた。
 普通の人間なら、いきなりの質問に驚くか、戸惑うところだろう。
 しかし、キュアンは違った。
 こうした問答には慣れている。
 同じ事件を追う相棒と言う他に、普段の生活も共に送っているからだ。
 つまり二人は、朝起きてから眠る直前まで、同じ時間を過ごしている特別
な関係でもある。
  とは言っても、恋人同士とはほど遠く、むしろお互いの行動を監視見張る
ような殺伐としたものだった。

「キュアン、犯罪が何故無くならないか、知っているか?」
「それは…我々警察官がいるからだろう」
 もはや、頭の中でその言動を理解するよりも、身体の方が自動的に反応
した。
 次の瞬間、カップを置くや否や二人は同時に席を離れ、出入り口の直前
で一人の男を颯爽と取り囲んだのだ。
「くそ、しくじったか」
 男は相手が私服の警官だと解ると、たちまち肩の力を落とした。
 案の定、背中に突きつけた二つの銃口が、言葉のない無言の脅迫をして
いる。
 偶然とは言えども、警察官と居合わせた不運を呪うほか無かった。

「なあキュアン、眼に写った犯罪を見逃すほど俺もバカじゃない、だが…」
 そう言ってトラバントは、婦人用のバッグを男の腕から取り上げると、もう
一度ほくそ笑んだ。
「だが犯罪を取り締まる人間がいる限り、人間は己の用心を怠る、違う
か?」
「!」
 キュアンは、その笑顔の意味を直ぐに察した。
 トラバントは、先ほど何に向けて笑っていたのか。
 おそらく、立ち並ぶ人を眺めて、己との比較をしていたに違いない。
「守られれば守られるほど、その人間は牙を無くし弱くなる…か」
 確かにそれも一理あると、キュアンはそう感じた。
 たとえパスポートを無くしたとしても、一律の申請を行えば、再び祖国へ戻
ることが可能だ。
 現に、ここを訪れる観光客の半分が、その手続きに来ている。
  だからと言って、トラバントの言うことに安直に同意出来るほど、弱者を非
難することは出来ない。

「弱い者は弱いなりに何かを頼って生きていくものだ、だから、強い者が正
しいという理屈は私には到底理解できそうにない」
 キュアンは心を偽ることなく、正直な考えをそのまま相手に伝えた。
  するとトラバントは、その言葉を待っていたかのように、どこか勝ち誇った
得意な表情を浮かべた。
 「そうだ、それが俺とお前の大きな違いだ。所詮、裕福な環境で幸せに育っ
たお前には、牙どころか爪さえも無い」
 ところがキュアンには、そんな相手の顔が誇らしげに見えるどころか、どこ
か寂しそうに思えてならなかった。
 誰に甘えることもなく、自分だけの力を頼りに生きてきた、さながら孤独な
傭兵のようにも見えてくる。
「ついでに言っておくが、みすみす敵のふところに飛び込んできた貴様は、
愛情と憎しみの区別もつかない愚か者だ、せいぜい寝首をかられないよう
気をつけるんだな」
「トラバント…」

 トラバントは、過去の因縁からキュアンを憎み、その男への復讐を捨てき
ることが出来なかった。
 相手の真っ直ぐな気持ちに応えながらも、一方ではそれを利用するかの
ように冷たい態度を見せる。
 共に過ごしながらも、その環境に暖かさは感じられなかった。
  吹き付ける風と同じで、ただ容赦なく冷たく突き刺すだけだ。
 それでもキュアンの心は、ますます相手を求めていく。
 まるで近づけば遠ざかる鳥を追いかけるように。

「私との生活で、過去のしがらみも徐々に薄れて行くのではないかと思った
が、それは大きな間違いだった」
「違うな、それは間違いじゃない」
「え」
「甘いんだ」

  パリ午後三時、一人の男が逮捕された。
 その場に居合わせた観光客の眼には、旅先での思わぬハプニングと言
わんばかりに、好奇の色が浮かんでいる。
 ある者は、息のあった二名の刑事の行動に、ため息さえこぼした。
 そんな中をキュアンは、ほとほとやるせない気持ちで店を出た。
「やはり私の考えが甘いのだろうか…」
 そんな彼の呟きを、到着したパトカーのサイレンが難なく消していた。

終わり

補足説明)パスポートやクレジットカードの盗難・紛失証明書は、
警察が発行しています
   また、それを持って大使館に出頭し、再発給や渡航書を入手します 
     警察の前でむやみにパスポートのコピーなどを広げたり
見せたりすると、
  盗難・紛失者と誤解されて、警察に案内されてしまうことも(経験談)

すたーと
ばっく