殺生丸の喜び


 りんが初めて殺生丸に会ったときには、既にそこに腕はなかった。
  だからと言うわけではないが、どこか不自然な気がする。

「どうした、りん、嬉しくないのか」
 邪険は、様子を心配して言った。
  殺生丸の両腕に抱きかかえられたりんは、喜んでいないばかりか、どこか
困ったような顔をしているからだ。
 まるでいけないことをしている時のような、そんなバツの悪い顔だ。
「こうして殺生丸さまがお前のことを思って…」
 どこまでも主思いの邪険は、本人の機嫌が損ねないうちに何とかしなけ
ればと必死になった。
  しかし、りんの顔色は依然(いぜん)変わらない。
「りん、何を戸惑う必要がある。この私が無理をしているとでも思ったか」
「え」
「お前の喜ぶ顔が見たいと思った、そのことに無理も偽りもない」
「殺生丸さま…」

  この日、殺生丸は、通りがかった村の畑で、子供が親に抱きかかえられて
喜ぶ光景を眼にした。 空の上からとは言えども、子供のはしゃぐ声は辺り
一面に響いている。
  その騒々しさにつられ、思わず眼を向けたのだった。
(何だ、人間の子供か)
 完全妖怪である彼には、親を恋しく思うことなど皆無(かいむ)である。
  ましてその性格では、優しくされて喜ぶこともない。
 しかし、りんは違う。
  どれほど気丈に振る舞い、たくましく生きていても、同じ年頃の人間の子
供だ。
「……」

「母ちゃん、このまま家まで連れて行って」
 幼い子供は、なかなか母親の腕から離れず、駄々をこねた。
「おやおや、お前はいつまで赤ん坊のつもりだい、さぁ、いい加減降りておく
れよ」
「やだよぅ、ここがいい、母ちゃんの側がいい」「困った子だね、それじゃああ
と少しだけだよ」 そう言って母親は、疲れているその両手でしっかりと我が
子を抱きしめた。
  不思議なのは、疲れているはずの顔が、何故かとても嬉しそうであること
だ。
 そうやって抱かれた子供も、とても満足そうに笑っている。
「母ちゃん、大好き」
「はいはい、それじゃあ帰ろうかね」

  この時、殺生丸は思わず、義母弟の犬夜叉のことを思い出した。
  過去に、同じ光景を偶然見たことがある。

  あいつは、抱かれることが嬉しかったのではなく、抱いていたのが母親だ
から喜んでいたのではないか?



「殺生丸さまが、どうしてりんを抱っこしたのか解らなかったの」
  りんは、自分が戸惑っていたことを、正直に殺生丸に明かした。
「これまでにも抱きかかえられたことはあるけど、いつも片腕だったから、だ
から妙な気がして」
「一本しか無ければ、そのように扱うしか出来ぬ、乱暴にしたつもりなどな
い」 
「殺生丸さま…」
「こうすれば、お前の気持ちが解るのではないかと思った、お前も同じように
喜んで笑うのかと」

  殺生丸は、ふと力を入れて、相手の体を胸元に引き寄せた。
  それは、なかなか笑おうとしないりんに、とうとうしびれをきらしたかのよう
だ。

「殺生丸さま、本当に甘えてもいい…の?」
「……」
 その返事は戻っては来なかったが、代わりに二本の腕が力強く答えてい
る。
「嬉しい。だったら、りんも殺生丸さまに同じ事してもいい?」
 そう言ってりんは、まんえんの笑みを浮かべ、その小さな両腕を伸ばし、
すかさず彼の胸元を掴んだ。

  その時だった。
  殺生丸の顔色が著(いちじる)しく変化した。
 それまで思いもしなかった感情が、突然、己自身の中に芽生えてしまった
からだった。
 畑仕事や洗濯をして、疲れ果てていたはずの母親が、何故あれほど嬉し
そうにしていたのか、その理由を、彼自身が経験をして知ってしまったのだ。

「くっ…」
「殺生丸さま、どうしたの」
 りんは、突然笑い出す殺生丸が不思議でならなかった。
「りん、何か面白いことした?」
「いや…」
  殺生丸は、即座に笑いを静めて、平静を装った。
 しかし、その表情は、どこか幸せそうで、いつもよりも穏やかであったと言
う。  

すたーと
ばっく